はじめまして!
「杉田さんの顔見たら、安心するじゃない(笑)」
といわれる、入間市で、リフォーム会社を営む杉田繁利(すぎたしげとし)です。
手間ひまをかけて丁寧に、私たちの子供部屋を作ってくれた父。朝から晩まで、機織りの内職をきちんと仕上げていた母。
そんな両親を見習い、「この人なら最後までやってくれる」と頼りにされるように、精進していきたいと思います。

杉田繁利

なぜわたしが【正直】を使命に掲げているのか、そのわけを聴いていただけますか?

「せっせせっせと、とうちゃん、すごいなぁ」

父は、戦前近衛兵として陸軍に所属していました。終戦を迎え、千葉県の東金市に残り、母と一緒に開拓していました。知らない土地でもあり開拓はうまくいかなかったため、実家の入間に戻りました。面倒見のいい父は、「いくちゃん」と呼ばれながら、農地開放運動の先頭になって一役を担っていました。
いったん運動が終結すると、職がなく、土方などをして生計を立てていました。わたしが幼稚園のころ、やっと西武鉄道に就職。踏切番をしていました。
小学3年生のとき、近くの建築廃材処理場から、いい廃材を買ってきて、兄とわたしのために6畳の部屋を作ってくれました。明晩の朝帰ってきて、ご飯を食べたら、お昼から次の休みの日まで、部屋を作っていました。
柱を建て壁を作り、ブリキの屋根を作る。そばで見ていると「しげ、そこの釘取ってくれ」といわれたら、わたしはよろこんで手伝っていました。こんなものどうやって作るんだ?と驚いて見ながら、関心していたのです。

「せっせせっせと、
 とうちゃん、すごいなぁ」

親父が西武鉄道の勤務明け、
私が「おかえりなさい」と言っているところ

母は、父が職につけないとき、機織りの内職をしていました。朝から晩まで、ぐちひとつ言わず、せっせせっせと、働いていました。霜柱が10cmほど立つ真冬の寒い時期でも、「自分が頑張らなくちゃ」と、よく働いていました。
母は責任感が強く、仕事はきちんとしないといけないと思っていて、丁寧な仕事をしていました。業者の人からの評判もよく、「生地がいいねぇ」とよくいわれていました。
わたしは、「お母ちゃん、よく働くなぁ。すごいなぁ」と思っていました。

よく働くなぁ~。すごいなぁ~。

「自分じゃどうにもならないなぁ...」

中学一年のとき、親友のYくんに衝撃的なことが起きました。Yくんが慕っていた先生の家に行き、不在だったようで、待っていたようです。ところが、Yくんは警察に連れていかれ、学校には来なくなりました。
担任の先生からは、「もうYとは付き合うな」と言われました。なにがあったのか、聞いても、「そんなこと知る必要はない」としか言われません。
わたしは、なんでYくんがこうなったのか知りたいのに、事なかれ主義的な先生の態度にいきどおりを感じました。

 

ただ、「自分じゃどうにもならないなぁ...」というやりきれない気持ちでいっぱいでした。もともと勉強が出来ないところにきて、さらに投げやりな気持ちになりました。
なにか明確な意志があったわけではなかったので、もう学校はいいと、中学を卒業後メーカーの工場に就職しました。工場では毎日同じことの繰り返し。何歳までこんなことやっているんだろう、毎日そんなことを考えていました。

そんな矢先、バイクで通勤中、トラックに衝突。左人差し指を切断。警察官から「この前の人は即死だ。あんたは指一本で済んでよかった」と怒られました。何が指一本で済んでよかっただよ! これからどうしようという気持ちで暗くなりました。そして、気が付くと、左手の指を隠す自分になっていたのです。
その後、職を転々と変え、先の見えない日々を送るようになっていきました。

中学校の時の親友と一緒
「今はどうしてんだろな・・」

「なんで、こんなことになるんだ...」

22歳のとき、入間市の工場に就職。ようやく会社からも仕事を認められ、上司からも評価をいただき、これからという時に石油ショックがおこりました。会社も生産調整から出勤日数の調整、そして人員削減と進めてきました。
首にされていく仲間を前に、どうにもならない、いきどおりを感じました。目の前で、「明日から来なくていい」と会社から言われ、自分は必要のない人間なんだ、と落ち込んでいく姿を見るのが、この上なく忍びなかったのです。「なんとかしないと。このままにしておけない」と仲間と労働組合結成し、私は書記長とし活動しました。

ところが、会社からの反発はすざましく、2月の寒い日、門前でチラシを配っていると、ホースで水をかけられたりしました。また、社員旅行で奥多摩の山奥に行ったとき、組合員がわたし一人だったため、全員に囲まれて脅されました。人が人を追い詰める行動に恐怖を感じながらも、一人でも戦うぞ、と意志を強く持ちました。
最終的には、埼玉県の労働委員会の調停で勝利。その後、裁判でも勝ちました。しかし職場は改善されない状況にありました。その時お世話になった弁護士から、事務局が必要なので来てくれと声を掛けられ、弁護士事務所の職員として6年間働きました。弁護士事務所の解散に伴い、顧問先であった狭山の建築協同組合に誘われました。ここで初めて建築業界で働くことになるのです。

建築業界で働くのは初めて、右も左もわかりません。事務所は事務のおばちゃんと私だけ。理事長は電気職人で自分の仕事に行っています。仕事を教わる人はいないので、とにかく職人さんのところに行って教わりました。

現場で一緒に作業させていただき、現場で学びました。バブルが最好調の時、職人さんも現場を多く抱え、こなしきれません。お客様からは、「いつになったら工事は終わるの!」「職人がちっとも来ないじゃないの!」と朝から晩までお叱りの声。えらいところに入ってしまったと後悔しても遅かれし。

2番目の子が生まれ、「お父ちゃん頑張って働なきゃ」という思いで無我夢中で働きました。毎日お叱りの声に対応する日々の中で、「杉田さんに任せるわ」という声を多くのお客様から頂けるようになったのです。
なぜかというと、ある時期から、現場を管理するのはお客様と私。お客様への対応するのは私。職人さんに気持ちよく仕事してもらうようにするのも私。と考えるようになったからです。

そうした中、大事件が起きました。協同組合の理事長の不祥事による大きな負債が表面化して大騒ぎになりました。理事長は辞任させられ、事務所に居るお前も同罪だと言わんばかりに「責任をとれ、お前が理事長になって後始末しろ」と押しつけられたのです。逃げるに逃げられず、一人取り残されたのです。

自分にはまったく非がないのに、「なんで、こんなことになるんだ。めちゃくちゃだよな」といういきどおりと、これからどうなっていくんだろう、という不安にかられました。 あげくに、自分の家を抵当に入れられ、正直、逃げ出したい気持ちもありました。ただ、ここで逃げ出して後ろ指さされたくない、自分の潔白を晴らしたい一心で、逃げないと腹をくくりました。ここで弁護士事務所で働いていた経験が私を助けてくれたのです。

何度も集会を開き、現状報告して今後の対応について、組合員の方々の理解と負担を得てきました。銀行には負債整理につて計画書を提出して返済を延期してもらう交渉をすすめました。1年かけて負債整理も何とか片付いたところで、理事長職を辞任して、8年働いてきた建築協同組合を退職しました。

下の列中央が私。最初の働いた職場の同僚と・・

「この人なら最後までやってくれる」

建築協同組合を辞めて失業状態の私は、食べていくためには慣れた仕事、それはリフォームしかないと思いました。そこで、入間市でリフォーム事業を立ち上げました。幸いなことに、建築協同組合のときの80%のお客さんが「杉田さんが会社を作るならお願いしたい」とついてくれたのです。このことは、気持ちの上でも経営の上でも、とても大きな支えになりました。

一方で、経営経験がほとんどないことから、建築協同組合でお世話になった、大工の川原のじいちゃん(当時85歳)にいろいろ力を借りました。

川原のじいちゃんの「ばあさんの食いぶちは俺が稼ぐんだ」という言葉は、しっかりと耳に焼き付いています。95歳で亡くなりましたが、今でもお正月、お彼岸とお盆にはお墓参りしています。また、悩んだり、新しいことに取り組む時は、川原のじいちゃんのお墓の前で相談にのってもらっています。そして「ばあさんの食いぶちは俺が稼ぐんだ」の言葉に勇気づけられています。恩人です。

また、大工の村田のじいちゃん(当時75歳)は、私と一諸でお祭り好きでした、町内のお祭りに、会社として、イワナ、ヤマメの塩焼きのお店を出店。そこでの村田じいちゃんの「おいしいよぉ!」という売り声が評判を呼びました。

これがきっかけになり、1月の餅つき・夏の流しそうめん祭りとなったのです。楽しく商売するルーツを村田のじいちゃんから教わりました。

会社の正月のイベント。
餅つき。13年間続けました。

夏は流しそうめん。餅つきととに
小さい子供たちに良い思い出を作りました。

リフォームの仕事の方も、トイレが詰まったとか小さな困りごとに対しては、わたしが初期的なことを「こうしてはどうですか?」とアドバイス。次の日の朝、「どうでしたか?」と電話を入れる。こんな工夫をしていました。

そんな細かな対応を、工事をやったお隣さんが見ていて、「うちもあんな風に工事して欲しい」というような依頼が来るようになりました。その工事を気に入っていただき、20年来のお付き合いになっているお客さんもいます。

また、おばあちゃんの介護をするとき、トイレの扉が1つだと不便だというので、工夫したことがありました。娘さんが家をリフォームしたいというので、「すごくいい人だから」とわたしのことを紹介してくれるお客さんも出てくるようになったのです。

売上も順調に伸び、社員も7名にまで増えました。

お客様と一緒

60歳のとき、事業拡大のために人を増やしましたが、大きな負債。結果として、泣く泣く人員整理。60歳という年齢、娘2人は嫁いでいるため後継者となれない、会社の経営が思うようにいかない。そんな状況で、会社を今後どうしていこうか、考えました。

会社を作るのは簡単。会社を閉めるのは大変。社員の働き場はなくなるし、なによりお客さんに迷惑をかける。元気なうちに後継者を作りたいと、長年がんばってきてくれた社員に、「跡を継いでくれないだろうか?」と打診するも回答はない。「やっぱり、社員じゃ、無理なんだろうか...」

いろいろ考えた末に、M&Aで会社を継続させる道を選択。途中、M&A仲介会社の人からは「こんな小さな会社、なかなか買ってくれないよ!」と言われ、気持ちが折れそうになるときもありました。

M&Aを決断して3年、65歳のときに買い取ってくれる会社がやっと見つかりました。

「助かった。こんな小さな会社よく買ってくれた。これで、社員もお客さんも安心」

M&A先の会社からは「引き継ぎの体制が整うまで、杉田さん辞めないで残って協力してください」と嘆願されました。今までと同じく代表取締役として仕事することになりました。2016年、65歳の時です。

なぜ、私が【正直】を使命と掲げているのか?

2018年、M&Aが決まってから早2年。M&A先の会社はなかなかわたしの社長職を引き継いでくれる人を用意してくれません。

逆に、新しく人は入ってくるが、だんだんと会社の雰囲気が変わっていく。
そんな中で、営業責任者の担当の現場でトラブルが起き、わたしは、全体会議の場で、その社員を厳しく叱りつけました。「担当責任者なんだから、言い訳して逃げるようなことは以ての外だ、責任を持ってやって欲しい」
これまで、トラブルもクレームも殆どなくやってきたのに残念でなりませんでした。

そして、この出来事以降、会社全体の雰囲気がガラッと変わりました。わたしが居ると「やりにくいから、いやだ」という、M&A先の社長含め社内の雰囲気が、さらに変わっていったのです。

そして、M&A先の社長より「もうどうにもならない状態なので、杉田さんには会社を辞めてもらいたい」と言われました。

会社を作って23年間で、得たものはなんだったのだろう...
M&Aって、こんなもんなんだろうか...
社員の雇用を守り、継続させてきたが、こんなもんなんだろうか...
お客さんにしてあげればよかったことは...悔いだけが残る。

2019年5月15日、自分が作った会社を辞める日と決まりました。

退職までの間は、毎日が悶々とした日々。退職の挨拶状が出せないままに退職日が来てしまいました。

退職後、意を決して、20年来のお客さんのところに退職の挨拶に行きました。

すると、お客さんは、いきなり大きな声で言うのです。

「どうしたのよ!心配したじゃない。こっちも困ったことがあったのに、どうしたらいいかわからず、不安だったんだから!」

その声を聴いて、わたしは、ハッとしました。親しいと思っていたお客さんにも、心の内を隠していたのか。見せたくないと思うと、隠してしまう。

結局、社員を育てられなかったのも、中学卒業だったことで、自分の能力のなさを隠して、社員と距離を置いていたからではないか。社員と腹を割って話しをできなかったので、人に任せられない、人に相談できず、つい一人でやってしまう。絶体絶命のときも、誰かに相談して、助け船を出してもらうことをしてきませんでした。

その典型が、バイク事故で、左指を切断し、いつもそこを見せないように隠して生きてきたことではないか...

そんな人生を振り返ったとき、心を開いて、いいこともよくないことも、正直に自分をさらすことが欠けていたと痛感したのです。

そこから、わたしは、【正直】を使命と掲げることにしました。

そこで、真っ先に、カミさんに、会社を辞めてどうしようか困っている、だれか助けてくれるだろうか、と相談しました。

すると、カミさんは、あっけらかんとこう言うのでした。

「いつもあなたの目の前にいて、助け船を出しているのは、わたしでしょ(笑)」

 

その言葉を聴いて、68歳の今からもう一度会社を立ち上げる踏ん切りがつきました。

かみさんに感謝!

いつも支えてくれている
かみさんに感謝!

今度こそ、お客さんに正直に自分をさらけ出して接しよう!
お客さんの本当の悩み、本当の気持ち、本当に求めていることを受け止めよう!
そして、もう一度後継者を育てよう!

それからです。もう一度既存のお客さんのところに訪問し、会社を立ち上げる旨を伝えました。すると、お客さんからこのように声をかけていただきました。

「杉田さんが続けてやっていただけるというのは、私たちにとっては、もう一安心ですね。本当によかったです」

「だって、杉田さんの顔見たら、安心するじゃない(笑)」

「また杉田さんがお仕事されると聞いて、母とも『またお願いできるね』と話していたところです」

「杉田さんとは、同じような世代に生まれた人だから、いろいろ苦労とかわかっている人だなって。そういう意味で、なんでも相談できたことがよかったです」

初めて、お客さんの正直な気持ちを聴いて、今までのお客さんに心からよろこんでもらうために、がんばろう!という気持ちになりました。

8歳の孫が20歳になったとき、わたしの会社に入れるようにがんばろう!そんな意欲がわいてきました。

「リフォームするには、どういうところがいいかな...なかなか見当たらなくて」

「この人は最後までやってくれるのか?どんなことでもやってくれるのか?」

「どんな方なのか、どんなやり方をしているのか、どういう経営をしているのか?」
そんなことで、気にされたり悩んでいるお客さんの笑顔のために、心を開いて【正直】に仕事をしていきます。

と、ここまで書いてきて、ふと思いました。これまでがんばってきたつもりだが、一人よがりで生きてきたのではないか、と思い、勇気をふりしぼり、家族のものに読んでもらいました。

次女
「自分の父親のプロフィールを見ていたはずなのに、いつの間にか杉田繁利という一人の男性の生きざまとして見ていた自分に気づく。
不器用で、生真面目で、実直。自分にも他人にも嘘がつけない。その性格ゆえ、時に裏切られ、貶められ、苦しめられる。
それでも腐らずに立ち止まらずに前を向く姿には尊敬の念を抱かずにはいられなかった」

 

長女
「労働組合のエピソードは、昔のドラマのような話を自分の父が体験しているなんて驚いた。私が生まれた頃に、こんな辛い時期を乗り越えていたとは全く知らなかった。

建築協同組合の辺りから、私自身も記憶に残っているけれど、忙しそうに働くお父さんの印象はあるものの、理事長の不祥事からの苦労とは知らなかった。
逃げ出すことなく、責任を肩代わりしながら、私たち家族を養ってくれて、お父さんは凄い」

 


「一緒になって36年、労働組合がきっかけで知り合い、結婚して何度か転職があった。子供が生まれ、何かとお金が掛かる時ではあったが、不思議と不安はなかった。財産が有るわけではないが、何故かお金の苦労を感じさせないでくれる人である。

 

いつも笑顔を絶やさない義母と、娘達を包み込みように可愛がってくれた義父が傍に居て、わたし達家族を見守ってくれた。

再出発をしてから、私は手伝い程度しかしていないけど、『杉田さんに頼んでよかった』そう言って頂くたびに、私も嬉しくて、改めて夫の仕事に対する姿勢に感心している」

このような言葉をもらい、あらためて、自分一人で生きてきたのではない、家族に支えられてきたのだ、と痛感しました。「おれも、この家族があってこそ、ここまでこれた」のだと実感しました。

そして、自分に誇りを持って、妻や子どもたちのため、そして、お客さんの家族のために、【正直】を使命に生きていこうと、再度決意しました。

最後に、
一人よがりで突っ走ってきたおれの話に、
いつも耳を傾けてくれたカミさんにひと言。

どんなときも「なんとかなるわよ」と言ってくれたおかげで、ここまでこれました。
あらためて、ありがとう。

杉田繁利

妻と一緒

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